「蛇の目寿司事件」(じゃのめずしじけん)

昭和40年に「蛇の目寿司事件」という悲しい事件がありました。

流れなどを色々と調べて書きました。

間違いなどがありましたら、どうぞご指摘願います。

1965年9月19日

東京上野の寿司屋「蛇の目寿司」店内で、他の客から手話をバカにされたろうの青年と客が喧嘩になり、仲裁に入った店主が止めようにも、最後にろうの青年と店主の喧嘩になり、青年に押し倒された店主が運悪く頭をうち翌日死亡。

◆被告について

二人は日本ろう学校中等部卒の者と台湾の尋常小学校3年中退者で、口話法には習熟しておらず、手話が唯一の会話法だった。

1966年6月5日

全日ろう連評議員会で「蛇の目寿司事件」支援を要請

1966年8月4日

蛇の目寿司事件控訴審開始

(日本初のろう者弁護士松本晶行氏が弁護団に参加)

◆判 決

加害者のろう青年のうち、一人は懲役4年、もう1人は懲役10ヶ月執行猶予3年が言い渡された。

<この事件のポイント>

いわゆる客同士のケンカに端を発する傷害致死事件だが、争いの発端や裁判の進め方などに関して、手話通訳が正しく通訳されているか?加害者の主張が正しく伝わっているのか?など障害者差別の疑念が持ち上がった。

被告のろう青年は、自分の主張が正しく通訳されていない疑いがあるとして、手話通訳者の交代を何度も願い出た。自分が手話で語る時間の長さに比べて、通訳者の発言時間が短すぎるなどの根拠によるものだった。これに対し、手話通訳者は「冗長すぎる部分は簡潔に要点をまとめた」と回答している。

判決に関して、意思疎通の不足で被告側の主張が十分に考慮されておらず、通常より重い量刑だとの意見もある。

他の聴覚障害者らによる支援が行われ、法廷での手話通訳保障運動が行われた。

このような事件がきっかけで、聴覚障害者の人権を守る動きや手話通訳養成の取り組みが行われるようになりました。

<当時の手話への偏見>

当時は口話法(発声訓練や読唇術などによる健常者相手にもそのまま用いれる会話方法)が重視され、聾学校の教育では口話至上主義で、今のように「手話」が「言語」と考える人は極端に少なく、そのため手話で話す二人には奇異の目が向けられた。

1970年

手話奉仕員養成事業がスタートし、手話通訳の重要性を広く社会に認知させた

文学にみる障害者像 西村京太郎著 『四つの終止符』の一部より引用

昭和40年の“蛇の目寿司事件”で知られる、聴覚障害者青年2人の障害致死事件の裁判がそれです。この小説を映画化した大原秋年氏が、この裁判を舞台で取り上げる企画を持って西村氏に働きかけた結果、この作品が作られたと聞いております。
容疑者の取り調べに当たっては、証拠を重視する現在と違って、自白が中心となっていた時代ではコミュニケーションの壁は決定的要素となります。
耳の聞こえない人たちのために大切な役割を果たしている手話通訳者の養成が始まったのは、昭和45年の厚生省の手話奉仕員養成事業からであり、それまでは司法警察の通訳はほとんどろう学校の教師が当たってきました。
しかも、ろう学校のすべては昭和初期より手話を禁止してしまい、口話法(発声・発語、読話)による徹底した教育をろうの生徒に強制していました。
小説の聴覚障害青年の孤立した閉鎖的な環境を一般の人が読めば誇張と思われるかもしれませんが、社会的差別だけでなく教育行政によってもこのような偏重した面があったのです。
ただ、聴覚障害者からこの小説を見た場合、仲間としてのろう集団の関わりが出てこないことに奇異な感じを持ちます。
“蛇の目寿司裁判”の時も仲間が救援活動を拡げ、障害者の人権を守る運動の先駆けとなり、東京のろうあ異動の興隆につながっています。
ろう学校で手話を禁圧され、手話の手を鞭で叩かれたり、手首を縛られても教師の眼の届かないところで仲間同士で手話を用いながら大切に守り続けたのですから、連帯感は強固なものがあったのです。
職場では孤立し、手話を知らない家族とは十分な話し合いも出来ないことから聞こえない者同士の親密感情は特別なものがありました。
弁護士が被疑者の主張を知りながら、反論の証拠を得られないままに、刑法第40条の軽減規定で家族を説得するのは、この小説が設定した時代では当たり前の風潮と思っています。
“蛇の目寿司裁判”の時も依頼に行った弁護士事務所が、ろう者とのコミュニケーションの難しさと、刑法第40条で重い罪にはならない考えから弁護を断わるところが多かったことからも判ります。

西村京太郎著『四つの終止符』という小説があり、これはこの事件を元にして書かれたそうです。(本が好きな方はぜひ!)